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平沢進論(2)―「みなしご志願」の平沢進―

平沢進 衒学 音楽

 前回の「平沢進論(1)」ではどうやら彼の歌詞には” 〈本来のものが現れる〉/〈既存のマヤカシが消える〉”の類型があるらしいという話をした。今回はこれの続きとして、〈既存のマヤカシ〉(=ホログラム)の中身について考えてみたい。

 ここでわりとありがちな考え方として最近の時事ネタから攻めるというのもあるだろう。要するに原発とか震災の話として「ホログラムを登る男」を読もうみたいなやつだけれど、この文章ではそういう切り口は取らないことにする。確かに平沢は震災以後、それらについては概ね積極的に発言していたし、その作品についてもそういった問題意識から作られた側面があることは否定できないけれど、僕はむしろ現在的な問題に対する姿勢を生み出すような、平沢の根本的な物の考え方に興味がある。そしてそれは間違いなく震災以前からあるものであるし、はっきり言って大部分はp-model時代から既にあったものだと思うのである。

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筆遊び:内宇宙的恐怖、あるいは対内宇宙恐怖症

雑文 平沢進

 ふと思い出したのだが、子供の頃、定期的に天体観測所(?)に連れて行かれた時期があった。文明史的立場から区分すればあれはまだ20世紀に属する時代のことで、日本現代史的立場から区分するならば、まだ一億総中流時代の端っこであったと言えるだろう。ご多分に漏れず、僕の家も当時は中流と自認することができる経済状況とライフスタイルを持っていて、休みの日にはやれキャンプだスキーだとレジャーに出かけて日本経済を回す使命を果たしていた。あの天体観測所?天文台?に連れて行かれていたのも、恐らくそういうレジャーとか社会学習とかそういう一環のつもりだったのだろう。

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平沢進論(1)―〈本来のものが現れる〉/〈既存のマヤカシが消える〉の歌詞類型―

音楽 平沢進

 平沢進について話してみたい。平沢進というミュージシャンは、かなり語り口に困るキャラクターを持っている。彼はいわゆるテクノ御三家の一つであったP-MODELの…といった説明はウィキペディアに任せるとしても、彼が音楽において何を表現しており、その元にある思索の内容とはどういったものかという点は漠としてわからない。もちろん本人によってある程度の説明はなされるけれど、例えばそれは音楽の権利関係についての主張なんかに比べればはるかに曖昧であるし、その姿勢は韜晦的と言っていい(恐らくそのことが自らの魅力を高めるものとわかっているのだろう)。歌詞にも盛り込まれている、現代医療とかアメリカの戦争なんかについては、ファンが動揺するくらいの言い方をするけれど。

 さて、そんな平沢進の最新作は『ホログラムを登る男』である。これと合わせたストーリーを持つインタラクティブライブも去年の11月に演じられた。そのストーリーをかなりかい摘んで言うと、“実在するものと信じ込まれているホログラムがある、これを破壊して善い世界をもたらそう!”みたいな感じだ(要約するとすごくキケンな匂いがするなコレ)。このライブは僕も観に行ってとても楽しんできたのだけれど、しかし「“ホログラム”とはなんぞや?」という疑問は残るのではないか。

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ブリコラージュするYouTube ―音楽の現代的な在り方(?)―

衒学 音楽 文化論

 寝れないままに思いつきを適当に書き散らしてみようと思う。多分まとまりのない駄文になりそうだけど。

 僕はYouTubeというものをよく使う。といってもYouTubeを使うのは珍しいことではないし、こんな辺境のブログなんぞを見ている人には「ゆーちゅーぶ…?なにそれ?」と思う人はいないだろう。今や、音楽にどれほど興味があるなんかには関わらず、多くの人がYouTubeなるサイトを開き、何らかの音楽を検索して聴いている。けれどもこのYouTube、けっこう奇妙奇天烈な代物だと思うのである。

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島村卯月はなぜ制服でS(mile)ING!したのか?【デレマス24話について真面目に考える】

アニメ デレマス

 アイドルマスターシンデレラガールズ24話(二期11話)の話がしたい。このアニメを最初から観ていた人なら多分ほとんどの人が同意する所だと思うけれど、この24話のラストは感動的だった。ここに至る二、三話でハラハラさせておいて最後の最後でようやく安心できる展開になっていて、一つ一つの演出も上手いから引き込まれる。この駄文を書くためにもう一度観返していたのだけれど、考察系オタクの頭で見ようとしていたのにその辺の考えが飛んでいくこと多々だった。

 それで、この24話の何が話したいかというと、表題にある通り、卯月がなぜ制服でライブに出たのだろうかということだ。実のところその部分はあんまり作中で説明されていなくて(多分そんなことをしたらテンポが悪くなるからだろう)、僕は一回観ただけだとそこのところはよくわからなかった。だからその理由、この場合はあくまで演出の意図は何かということだけれど、それについて考えてみたいと思う。

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”説明する”ことと”説明しない”こと

衒学

 ”説明する”ことと”説明しない”ことについて考えてみたい。特にここで述べたいのは、”説明しない”ことの方だ。説明―それは大体の場合、自分の考えや立場の表明と不可分であると思うけれど―というのは、概ね世の中で推奨されたり強制されたりするものだと言って間違いないだろう。例えば「説明責任」なんて言葉はよくニュースで耳にすることができるし、「あなたは説明が少ないですね」と言われて責められていると思う人はいても褒められていると思う人はいないだろう。けれども、実際のところ”説明しない”ことは多分に効能を持っていて、人間っていうものはそれを知らず知らず上手いこと使っているんじゃなかろうか。

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はじめに

このブログについて 衒学

 ここで書く文章は、あまり人に見せるつもりがない。わざわざブログのサービスを使ってインターネット上に公開しているのだから、そんなことを言い出すのは矛盾している。

 けれども、人に見せないであろう日記帳なんかにわざわざ「これは人に見せません」なんて書く事はない訳だから、やっぱり冒頭の文章は見る人を意識したものということになる。この文章は今思いつきで書いているから、そういう訳のわからないことになっているのだけれど、ひとまずこれから書いていくであろう内容についていくらか但し書きをしておきたい。

 ここで書く文章は、積極的に人に見せたい訳ではない。ただ単に、手元に書いた文章があるから、せっかくだから公開してみるか、という程度のものでしかない。その文章というのも、ただ毎日思いついては忘れていく様なしょうもないことを、わざわざ残しておきたいがために書いたものに過ぎないし、書くために書いたものに他ならない。

 これまで、物を書く時にはしっかり根拠を用意して、他に誰かが似たようなことを言ってないか調べて――とかなんとかそんなことを僕はこれまで教わってきた訳だけど、ここに載せる文章はそういうことをあまりした上のものではない。そういった手順を踏もうと思うと、思いつきは書けなくなる。僕は適当でクソの役にも立たない文章が書きたい。

 で、そうなってくると何故そんなものを公開するのかなおさら訳がわからないし、結局は後から思い返して布団に頭を潜らせるような代物にもなりそうだ。まぁ、しかし、この世にある無数の駄文の中に、数え切れる程度の駄文が仲間入りするだけなのだから、そう気負う必要もないだろう。