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”説明する”ことと”説明しない”こと

 ”説明する”ことと”説明しない”ことについて考えてみたい。特にここで述べたいのは、”説明しない”ことの方だ。説明―それは大体の場合、自分の考えや立場の表明と不可分であると思うけれど―というのは、概ね世の中で推奨されたり強制されたりするものだと言って間違いないだろう。例えば「説明責任」なんて言葉はよくニュースで耳にすることができるし、「あなたは説明が少ないですね」と言われて責められていると思う人はいても褒められていると思う人はいないだろう。けれども、実際のところ”説明しない”ことは多分に効能を持っていて、人間っていうものはそれを知らず知らず上手いこと使っているんじゃなかろうか。

 

 昔、研究室の旅行で、ある神社に行ったことがある。僕の所属していた(今もかろうじて所属している)研究室は日本史学を専攻するものだったから、寺社仏閣に行くのはよくあることだったのだけれど、その時は珍しく神事というものを受けることになった。その神事というのが、巫女だか神官だかが然るべき儀礼行為をした後に、大きな釜を炊くというものであった。それでしばらくするとその釜から不思議な音が響いてくるのである。例えるなら、お寺の鐘を巨大なバイオリンの弓で引いたならこんな音が出るんじゃないか、というようなボーーーといった音である。それでその音はある程度のところで鳴り終わって、神事終了である。この神事を受ける人は、最初に神に聞きたいことを告げておくのだが、その答えはこういう具合に教えられる。「あなたがこの音から受け取ったものがその答えです」と。

 この神事には全く説明がない。もしこれがタロット占いにでも行ってのことで、「このカードがあなたの将来です」などとだけ言って終わりならば「金返せ!」となるに違いない。タロットカードの肝は現れたカードの解釈だ(ということらしい)。だから当然示すところを説明する、「このカードはあなたが近いうちに苦境から脱し、新たな光を浴びることを示しています」とかそんな具合に言うだろう。

 しかしながら考えてみると、“説明する”というのは間違うことに対して一歩足を進めるのに他ならない。そういった占いだとかおみくじだとかに「あんなの嘘っぱちじゃないか」と後で毒付いた経験は、敬虔な信者でない限り誰だってあるだろう。もしくは、科学的説明なんていうのも間違った仮説の積み重ねだ、なんて例を挙げてもいい。そんな訳で、裏を返せば“説明しない”というのは間違いに対してその足を踏み留めるという風に言い換えてもいいだろう。“説明しない”ならば、正解にもたどり着かない代わり間違うこともない。さっきの神事で言えば、神様は間違えようがない。あの釜の響きは確信を与えるような響きではなかったし(これがメジャーコードとかマイナーコードだったならわかり易いのだけど、それだとNHKのど自慢みたいだ)、いくらでも後付けができる。むしろそういった現世利益的な側面が削ぎ落とされて、神事の厳かさだけが残った形態だと言ってもいいのかもしれない。何にせよ“説明”はしていないから、「あそこの神社、全然当たらないよ」なんて言われることはあるまい。

 言い換えれば、“説明しない”ことは相手に言質を与えないということでもある。つまり政治的な効果がそこにはある訳で、政治家が批判に対して「なるべく善処します」とか答えてみたり、「日本を良くします!」とか意味のないことを言ってみたりするのを想像するとわかりやすいんじゃなかろうか。責任ある人間が「○○問題を解決します!」とか言ってしまうとそれは公約(まさしくパブリックな約束な訳だ)になってしまうし、その約束を破れば責任を取らなきゃいけない。約束の反故を逃れるには、そもそも約束しなければいい。そのためには、具体的な説明は避けて抽象的なことを言った方がいい訳だ。“説明する”ことには常に間違う可能性が付きまとっていて、場合によっては、そのせいで損失を被るかもしれない。それらを避けたいのならば、説明しなければいい。

 今見てきたのは、いわば“説明する”ことのネガティブな側面としての“説明しない”ことの効能だった。じゃあ“説明しない”ことそのものに積極的な意味は求められるだろうか。昔読んだ本でビートたけしがこんな風に言っていた(今本棚を調べたら『愛でもくらえ』って本だった)。

 

 なぜあなたの映画は無口なんですか、状況を説明しないんでしょうかって言われるけど…説明することがすべての人に対していいことではないよ。逆に説明すればするほど人をふるい落とすことになるというか。

 …レポーターがいて、ラーメン屋に行って「ここのラーメンうまいんです」って食べる。

 「あぁ、うまいですねぇ」って、ひとこと言った瞬間に、テレビを見ているやつは全員がそれをうまいと思う。だけど、「かつおのダシがきいてる」って言ったとたんに、かつおが嫌いな人は降りる。「麺がシコシコしてる」シコシコ嫌いもまた降りる。…

 

 つまり、説明を制限する、この場合「美味い」とだけ言って、どう美味いかは相手に勝手に解釈させる。そうすると、ふるい落とすことなく多くの人を惹きつけられるっていう、表現のテクニックみたいなものなのだろう。

 ここで“説明しない”ことは、相手に解釈を委ね、想像を促す機能を果たしている。さっきのビートたけしの例は映画の話だったけれど、恐らくこの機能は詩とか小説とか絵画とかあらゆる芸術分野に見出しうるだろうし、日常会話でも使われていることだろう。“説明しない”ことで、例えば一つの情景は受容者それぞれの多様な意味を持ちうるし、言外の意味を漂わせてより深遠に見せたりする。詩とか小説の解説を読んで「思ったよりしょうもなかったな」とガックリしたり、洋楽歌詞の和訳を読んで曲への評価がダダ下がりしたりなんていうのもよくあることだろう。“説明しない”ことは相手の想像力を働かせ、隠された意味を仄めかす。これが芸術の一つのミソなのであろうし、世の中の文章が論文という一種だけに収まらない理由でもあるのだろう。

 こんな具合で、“説明しない”ことの効能みたいなものについて考えてきた。「生兵法は大怪我のもと」みたいなもので、少なくとも下手な説明をするぐらいなら説明しない方がいいようにも思える。説明したがために間違いを言ったり失言したりしてしまうことを避けて、“説明しない”ことで頭をブラックボックスに見せかけ相手に勝手に想像させた方がいいのかもしれない。

 しかしここで、人間社会でどうにか生きていく上で全く“説明しない”でいることはできるのだろうかという問題にぶち当たる。極論で言えば、「おはようございます、今日はいい天気ですね」なんて些細な挨拶も一つの説明(表明)だと言えなくはないし、そこまで言わずとも全く“説明しない”人は「あの人何考えてるかわからない、気持ち悪い」なんて評判が立つのがオチだろう。だから“説明する”ことと“説明しない”ことについては両者のバランスを上手く取るのが大事ですね、なんて平凡な結論に落ち着かざるを得ない。

 けれどももうちょっと突っ込んで考えてみたい。そもそもなぜ人が“説明する”のかと言えば、自他の間に理解を生じさせたい訳で、それによって物事を円滑に進めたいからなはずだ。少なくとも人類は言葉のコミュニケーションを得たことで、狩りだとかの生存に長じ、複雑な社会構造を築き得たという説明は成り立つだろう。けれどもその“説明する”ことの反面には理解ではなく誤解を生んで、協力ではなく抗争を生んだりする可能性が常に付きまとっている。そういう意味では“説明する”ことそのものに矛盾が内在されてある。“説明しない”ことの効能とはその矛盾が別の形で噴き出していることに他ならない。

 そしてこの矛盾は有史以前から解決できないものとしてある。だからこの矛盾を前にしては、そこからなるべく逃避するか、進んで引き受けるかのどちらかの態度しか取りようがない。何かを進んで説明しようとすることは、この矛盾を肯定して引き受けることであって、陥穽を恐れずに前進しようとすることだ、などと言うとちょっと人文趣味的なカッコつけに過ぎるだろうか。なんだかタイトルといい結論といい丸山真男みたいになってしまった。