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ブリコラージュするYouTube ―音楽の現代的な在り方(?)―

 寝れないままに思いつきを適当に書き散らしてみようと思う。多分まとまりのない駄文になりそうだけど。

 僕はYouTubeというものをよく使う。といってもYouTubeを使うのは珍しいことではないし、こんな辺境のブログなんぞを見ている人には「ゆーちゅーぶ…?なにそれ?」と思う人はいないだろう。今や、音楽にどれほど興味があるなんかには関わらず、多くの人がYouTubeなるサイトを開き、何らかの音楽を検索して聴いている。けれどもこのYouTube、けっこう奇妙奇天烈な代物だと思うのである。

  例えば、いかにも音楽通っぽいおじさんが、こんな批判とも愚痴ともわからないことを言っているのを聞いたり読んだりしたことはないだろうか。「僕らはね、音楽を聴くためにはレコード屋に通って、少ない情報を頼りにして洋楽のレコードを漁ったもんだよ。ネットで聴く音楽なんて、聴いたことになるもんか。音楽は、ラジオでもなければアルバム単位で聴くものだったし、プレスリーの後はビートルズ、その後はピンクフロイドとか追っていって…〇〇(←ジミヘンでもマイルスでもYMOでもなんでも良し)が出たときは衝撃だったよなぁ…」とか。嗚呼美しき哉レコード時代。

 おじさんは正しい。ここで提起されてる音楽鑑賞の大事な要素はこんな感じだ。①自分で頑張って探す、②アルバム(=作品)単位で聴く、③歴史的な流れを押さえる(ロックの発展とかジャズの「革新」とか)。まぁ①の辺りは精神論が入っているからどうでもいいと片付けるにしても、②③は圧倒的に正しい。確かにその音楽を理解する上で大事な点だろうし、特にプログレニューウェーブなんかはこれがわかってないと意味不明だろう。

 ところがYouTubeで音楽を聴く在り方はこういった手順をぶっ飛ばしてしまう。名前さえ知っていればすぐに見つけられるし(当然ないのもあるけど)、労力どころか、本当は良くないことだけどお金もかからない。○○とかいう名盤とか名演に入ってた名曲は一曲だけでポーーンと上がっているし、そもそもアルバム丸上げの方が、倫理的に言ってもちょっと気が引けちゃう。時代とか空間も知ったことではない。まさしく今発表された新曲を聴いた数秒後に1930年代のデルタブルースを聴くこともできるし、中東の宗教音楽とか、アフリカだか南米だかの民族音楽を聴くとか、自由自在にも程がある。

 これはちょっと考えてみるととんでもないことだ。特に僕が気になるのはおじさんの言う③の部分で、音楽は元々時間と空間に縛られていたはずだ。レコード誕生以前に遡るのはやめにしても、少なくともアメリカで売り出された曲が日本ですぐに聞けるなんてことは、多分米軍放送ぐらいでしかなかった。アメリカの曲ならせいぜい一年待てば入ってくるかもしれない。でも50年以上前の曲(クラシック除く)とか、ポップスから遠く離れた民族音楽なんてどうやって聴けばいいのだろうか。ネットの出現、YouTubeの出現はこういった制約を吹き飛ばしてしまった。

 で、そこからの話なのだけれど、僕はさっきの架空のおじさんになりたい訳でも90年代末のネットの黎明に興奮するヒッピー崩れになりたい訳でもない。重要なのは、今の音楽の聴き方とはそういうものになったという事実だ。この特異な事態(考えてみればおじさんのレコード時代も十分歴史的に特異なのだけど)をどう理解したらいいのか。音楽の発展段階とか作品の枠組み、つまり系譜とか文脈から切り取られた音楽の聴き方にどんな積極的な意味を認められるか、要するにその聴き方は何かしらに役立たないだろうかというのが問題だ(他に流通とか産業の話もあるけどその辺は今はやめにしとこう)。もちろんYouTubeを武器に系譜的な聴き方を強化するっていうのも考えられるし、そういった立場から、いかにもYouTube的な聴き方を断罪するというのもアリだろう。でも僕はその立場は採りたくない。

 そこで連想したのが、「ブリコラージュ」っていう考え方だ(最近気まぐれに構造主義っていうのをお勉強していて、そこで覚えたばっかりの概念使いたがりになっちゃっただけなのだけれど)。頑張って説明すると(というより松岡正剛の千夜千冊なんかを見てもらった方が良さそう)、ブリコラージュっていうのは構造主義を思いついたレヴィ=ストロースって人の手法で、この人は神話とかの対象をブツ切りにする。つまり「誰々が何々してどうこうな結末を迎えましたー」っていう風にお話を読むんじゃなくて、エピソードごとにバラバラにしてしまう。で、これを別な形に組み直したり比べたりしてる内に今までとは違う見え方、違う意味が(構造)が現れてくる…みたいな感じらしい。

 それで本題に戻ると、YouTubeで検索して音楽を聴くっていう行為は、このブリコラージュを無意識的にやってると言ってもいいんじゃないだろうか。音楽には確かにロックンロールとブルースが出てきて60年代ロックになってプログレになって…とかビッグバンドからビバップが出てきてハードバップになってモードジャズが生まれて…とか確かに系譜があった。もしくは『サージェントペパーズ~』がどうとか『狂気』がどうとか確かに作品としての枠組みがあった。音楽を理解するには大事な観点であることは間違いない。

 けれど、それが全てだろうか。敢えて言えば、音楽っていうのはそういう手順を踏まないと聴けない、理解できないもんだろうか。系譜や作品を重視する態度はよく見かけるけれど、そんなものを大事にしなくたって音楽は聴けるんじゃないか。ロックばっかり聴いてクラシックのことを何も知らない人間がベートーヴェンをいきなり聴いて感動することもあるだろうし、長い曲の一部分に過ぎないワンフレーズだけを聴いて感銘を受けることもあるだろう。そもそも誰だって何も知らずに音楽を聴いて感動したから色々聴き始めたはずで、発端はそこにあるはずだ。音楽の良さっていうのは、「ここの手法が発展していて素晴らしい」とか「この作品としてのまとまりが…」とかで確かに語れるかもしれないし、僕も実際にそういう語り口をしたりするけれど、それが全てじゃないんじゃないかと思ってしまう。これはもうただの直感で根拠はないし、神秘主義みたいなものだけど。ともあれ、我々はYouTubeで検索して音楽をかけた瞬間、こういっためんどくさい逡巡を一跨ぎして文脈や系譜をスパリスパリと切り離しているわけだ。

 ブリコラージュは切り分けるだけでなくて、再構築もする。つまり僕らはYouTubeでスパスパ切り分けた音楽を“自分の好きな音楽”みたいなところに放り込む訳で、「高く評価した動画」とか「履歴」とかにそういうのができ上がったりする。それでその中をじっくり見てみると、例えば僕の場合きれいなピアノのサントラ・テクノ・アニソン・60年代ロック・一昔前のロキノン・ブルース・ゼロ年代ブリティッシュロック・源氏物語の平安発音再現朗読・一応ジャズとかなんか偏ってるけどいまいちよくわからないような履歴が出来上がっている。それでこれを歴史的な流れとか作品としての枠組とかそういうのを無視して眺めていると、ぼんやりと“自分の好きな音楽”とは何かが見えてくる気がしないでもない。縁のないはずのジャンルに共通する、何か似たような感触があるような気がしてくる。軽いというよりは重い、外向的というよりは内省的、下品というよりは上品…とか、何らかの類縁性が見出されるように思える。それらは錯覚かもしれないけれど、自分の求める音楽像を朧げに示してくれているような気もする。少なくともYouTube的な音楽の聴き方によって、系譜や枠組とは別の見方を与えられるかもしれない。

 まぁ、こんなグダグダと書かずとも、コラージュ的な手法ならばここ2,30年くらいの音楽にはいくらでも見つけられるだろう。例えばサンプリングがあるし、どこかの民族音楽を借用するっていうのであればもっと昔からある(どころかこの後者のやり方は異文化を軽視しているからマズイみたいなことを坂本龍一だかが言ってるのを読んだこともあった)。平沢進なんかも「タイの音楽は洋楽を誤解した上で現地の音楽と繋げているから面白い」なんてことを言っていた。そういう風に考えていくと、やっぱりブリコラージュ的な音楽の聴き方作り方はとっくに普通のものになっているし、それは(少なくとも日本においては)メインストリームの音楽がほとんどなくなっちゃったっていうのと通じている気がする。そういった風に考えると、既にブリコラージュ的な手法なるものは現代的な在り方として、明らかに存在していると言っていいかもしれない。

 ここから「メインストリームはないと言えば大きな物語の喪失なんて話もあったぞ…そういえば『歴史に正史は有り得ない』なんて話にも一脈通じてそうだ」とかなんとか言い出すこともできるかもしれないけど、そうなってくると収拾がつかなくなる。この辺にしておこう。今回の文章、すごく頭でっかちで実際との差が激しい気もするし、あんまり書くのに成功した気もしないのだけれど。