読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

平沢進論(1)―〈本来のものが現れる〉/〈既存のマヤカシが消える〉の歌詞類型―

音楽 平沢進

 平沢進について話してみたい。平沢進というミュージシャンは、かなり語り口に困るキャラクターを持っている。彼はいわゆるテクノ御三家の一つであったP-MODELの…といった説明はウィキペディアに任せるとしても、彼が音楽において何を表現しており、その元にある思索の内容とはどういったものかという点は漠としてわからない。もちろん本人によってある程度の説明はなされるけれど、例えばそれは音楽の権利関係についての主張なんかに比べればはるかに曖昧であるし、その姿勢は韜晦的と言っていい(恐らくそのことが自らの魅力を高めるものとわかっているのだろう)。歌詞にも盛り込まれている、現代医療とかアメリカの戦争なんかについては、ファンが動揺するくらいの言い方をするけれど。

 さて、そんな平沢進の最新作は『ホログラムを登る男』である。これと合わせたストーリーを持つインタラクティブライブも去年の11月に演じられた。そのストーリーをかなりかい摘んで言うと、“実在するものと信じ込まれているホログラムがある、これを破壊して善い世界をもたらそう!”みたいな感じだ(要約するとすごくキケンな匂いがするなコレ)。このライブは僕も観に行ってとても楽しんできたのだけれど、しかし「“ホログラム”とはなんぞや?」という疑問は残るのではないか。

 多分、平沢の姿勢としては「その意味は自分で考えろ」ぐらいのところがあるのだろう。だからこれを考えていくと、「平沢進は何を“ホログラム”とするか」と「平沢進を考える私は何を“ホログラム”とするか」がだんだん二重写しみたいになってきて、いまいち判別がつかなくなってくるフシがある。この辺の捉えどころのなさもまた平沢進の魅力だろう。このような不思議な奥行きを持ったミュージシャンが他にいるだろうか?(知ってたら聴きたいので教えて下さい)

 それで、これについて考えていくなら当然『ホログラムを登る男』やそのインタラのストーリーについて見ていくべきなんだろうけど、はっきり言ってわからん。このアルバムはなんだかいつもより歌詞の意味が読み取りにくい気がしてしまって、特に火事場のサリーなんかさっぱりわからん。

 「という訳でお手上げです」としてしまうと話が終わってしまうが、一つ手立てがある。それは、曖昧ながらも平沢の根本的な考えを想定してしまって、そこから読み解いていくというやり方だ。そもそも人の考えというのは作品ごとにそう簡単に変わらないし、これまでに何十枚何百曲の作品を作った還暦過ぎのおじさまならまぁ尚更だろう。前に書いた駄文に引きつけて言うと、平沢楽曲を切り貼りしてブリコラージュし、平沢進という構造を暴き出そうという訳だ。

 そこで思い切って、平沢歌詞における一つの型[1]を置いてみよう。それは“〈本来のものが現れる〉/〈既存のマヤカシが消える〉”というものである。この対比がわかりやすく繰り返されているのが『現象の花の秘密』の侵入者(この曲の歌詞は平沢作品の中でも指折りの傑作だと思う)。三行目から対比的な構図がいくつも出てくる。

   窓を破る礫は眩しく / 鍵は全ての性を断ち消えた

   初めからある忘れられた街 / 初めから無い知り尽くした日々

   光る人影部屋の隅に立ち / 壁は盾の役を終えて消えた

   初めから居る忘れられた人 / 初めから無い知り尽くした家

 全て“〈本来のものが現れる〉/〈既存のマヤカシが消える〉”の対比関係になっているのが明らかだと思う。そしてこの〈本来のものが現れる〉ことは、平沢にとって明らかに善いものとして描かれている。この侵入者の中では〈本来のものが現れる〉ことは「急げ デジャビュー」と呼びかけられている(こういった命令形の多用も平沢進の特徴だ)し、あとは「ガラクタを積んだ社は消え」るTimelineの東なんかもこれがわかりやすい。[2]

 〈本来のものが現れる〉=善と断じて良いかが疑わしいならば、もう一つ例を挙げよう。今度は白虎野だ。この曲で出てくる「名も知らぬ広野」、「夢で見せた街」、「捨てられた道/野」、「見も知らぬ炎」、「見知らぬ都」、「あの時に無くした道」は同一イメージの言い換えだろう。すなわち、既知の外(平沢は「キチガイ」を「既知外」と表記したりするが)にあるものではあるが、実は夢〔=(集合的)無意識?[3]〕の中にあったものであり、過去に無くしたり捨てられたものであるということだ。そしてこれを取り戻して「捨てられた野に立つ人を祝う」のであるし、「ようこそ ここが私達の都 私達の未来(ベトナム語)」と宣言される。曲調から言っても明らかに皮肉的ではないし、〈本来のものが現れる〉=善きこととして描かれていることは間違いないだろう。平沢にとって人(ないし平沢自身)があるべき場所、あるべき未来は、いま我々がいる所ではなくて無くしてしまった〈本来のもの〉にあるのだろう[4]

 うまく論証できるよう肩に力が入ってきたので、だんだん文章が固くなってきてしまった。平沢進論、思ったより大変なので今回はこの辺で区切っておこうと思う。という訳でこの文章で確かめたのは以下の二つ。

①近年の平沢進の歌詞には“〈本来のものが現れる〉/〈既存のマヤカシが消える〉”という類型がある

②〈本来のものが現れる〉ことは平沢にとって善きこととして描かれている

 ここから考えれば“ホログラム”もまた消えるべき〈既存のマヤカシ〉を表すものとして出てきているのではないかなーと予想がつく。この予想が正しいか、正しいとしてじゃあその“ホログラム”の意味するものは何かという話はまたいつかやろうと思う(やらないかも)。

 

 

 

 

[1] 「型」とか「類型」とかの言葉遣いにはマイナスイメージなどは込めていない。大体のミュージシャンはその作品に 共通する型を持っているものだろうけれど、こんな独特の型を持ってるミュージシャンなんてそうそういないだろうとむしろ敬虔なる馬骨心を新たにする次第だ。

[2] どうもこの型が使われているのはここ十年くらいのように思える。

[3] 平沢はP-MODELの『SCUBA』辺りからユングに凝っているようであり、ここの「夢」のイメージは恐らくユング心理学的な集合的無意識なのではないかと思う。

[4] 恐らくこれがアルバム『白虎野』のテーマであるのだろう。だとするとラストのパレードは〈既存のマヤカシ〉が支配するディストピアで、まごうことなきバッドエンドだ。