読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

筆遊び:内宇宙的恐怖、あるいは対内宇宙恐怖症

 ふと思い出したのだが、子供の頃、定期的に天体観測所(?)に連れて行かれた時期があった。文明史的立場から区分すればあれはまだ20世紀に属する時代のことで、日本現代史的立場から区分するならば、まだ一億総中流時代の端っこであったと言えるだろう。ご多分に漏れず、僕の家も当時は中流と自認することができる経済状況とライフスタイルを持っていて、休みの日にはやれキャンプだスキーだとレジャーに出かけて日本経済を回す使命を果たしていた。あの天体観測所?天文台?に連れて行かれていたのも、恐らくそういうレジャーとか社会学習とかそういう一環のつもりだったのだろう。

  ああいう場所を正式にどう呼ぶべきか、そもそもどこにあったのかも忘れてしまったけれど、とにかくそういう星を見に行く場所があった。当然天体観測だからそこに行くのは毎回夜のことで(一回だけ昼に行ったこともあった気がする)、建物の中も暗くしてあった。世間で天体観測と言うと、僕らの世代で知らぬ者はいないBUMP OF CHICKENのアレとか、少し下の世代も知っている君の知らない物語(なんかどっちかわかんない感じになった)とか、概ねロマンチックな風情が感じられるものなのだろう。さすがに小学生にロマンチックを求めるのは無理があるけれど、それでも「しょうらいは うちゅうひこうしに なります!」みたいな夢と冒険の世界は期待されてもいいはずだ。

 けれども、どうも僕の記憶の中の天体観測所?天文台?はそんな夢やロマンのかけらもない。覚えているのは、その場所がどうにも恐ろしく感じられたということだけだ。さすがに泣き出したり逃げ出したりするほどではなかったけれど、暗い建物の中に飾ってある天体写真、特にあの木星の眼か何かに見える異様な模様とか、そういったあれこれがどうにも怖くて、列に並んで見せてもらったはずの天体望遠鏡に何が映っていたのかはどうにも記憶にない。いや、土星の輪を見せてもらったことは今思い出した。けれどもやっぱりそれは今の今まで忘れていて、それを覗いた時の特別な感慨とかはわからない。それらのあれこれよりも、とにかく何か得体の知れない怖さがあったという印象が圧倒的に強いのだ。よくサブカル界隈なんかでも散々ネタにされるクトゥルフ神話っていうのがあるけど、あれでいう「宇宙的恐怖」っていうのがああいうものなのかもしれない、と思ったりする。ラヴクラフトが宇宙に見出した、ヨーロッパ的・キリスト教的世界を一切合切否定する虚無(まさしく20世紀前半らしい発想だ)については当然知る由もなかったが、子供の、自分の周りだけで完結した世界を遠い遠い外側のどこかから揺るがされているような気でもしたのかもしれない。

 ところで「内宇宙」という概念がある。これはさっきのラヴクラフトとかは全く関係がなくて、僕がこれについて知ったのはまたもや平沢進からだった。というよりこれは90年代末のオカルト趣味的な文脈にあるのだろうが、それはいいとして内宇宙というのは、人間一人一人が宇宙そのものであり、宇宙と一体であり、そういった意味で宇宙を内包しているのだというような考え方らしい。なんでもチベット仏教辺りから出た概念で、悟りを開くと(もしくはクスリをやるとという話も見るが)宇宙を感じられるらしい。例えばネットで「銀河系と人間の脳内細胞の構図が驚くほど酷似している!!」みたいな画像を見たことはないだろうか。ああいうやつである。人間と宇宙がフラクタル構造というか、マトリョーシカというか、なんかそんなイメージらしい。どうも宇宙好きにはヒッピー崩れのオカルト趣味者がけっこういるようだ。

それで例えば平沢はこれをどう使うかというと、人間の内的世界の広大さみたいなものを表す時に用いるようである。例えば『現象の花の秘密』の「Amputee ガーベラ」ではこんな感じだ。

  ハイウェイを埋め尽くすガーベラ

  キミの名の消えないガーベラ

  星を生むような 巨大な3Dの裏庭

 今回は平沢論がメインじゃないから手短に行くが、ここの“ガーベラ”はどうやら人生における可能性みたいなものの象徴で、現存在としてのキミの“裏”にはそういった世界線を束ねた広大で宇宙的な空間があるみたいな話かと思う(平沢は自分で小説を書きたいぐらいのSF好きらしいが、そういったものに由来するモチーフなのだろう。なお、この曲は僕のお気に入りで、どうでもいい事にこのブログのタイトルの元ネタもこれである)。なるほど、確かに人が選択するということが可能で、この世に分岐が存在し得るのであれば、人間一人一人の現在の裏には可能性(不可能性?)の束があって、まさしく天文学的なスケールの内的世界を持っているのかもねと考えることはできるだろう。少なくとも、僕はこういった人間の内的世界みたいな視点は好きだ。例えば寝ている時に見る夢には実際に見たことがないような不可思議な光景が現れたりするけれど(そういえば非常にグロテスクでジャガイモみたいな惑星が浮かぶ夢を見たことがある)、そこから目が覚めた時は人間の内宇宙みたいなものの存在を信じようかという気持ちにはなるし、存在するかもしれないその世界に深く感じ入ったりするのである。

 しかし、この話が自分一人に留まっている内はいいのだが、自分以外の、目に写るあらゆる人間が内宇宙とやらを持っているのだと考えると実に恐ろしくなってこないだろうか。考えがそこに至ったとき、冒頭で述べたあの宇宙に対する得体の知れない恐怖が、人間個人個人と相対した時の恐怖感にオーバーラップしてくるのだ。人と接するのは少しもつらくない、怖くない、むしろ楽しい!という人にはこんな話はわからないだろうけれど、あの相手取っている人間の内面みたいなものを覗き込もうとする時の怖さとそもそも覗き込んでも理解できまいという恐ろしさは、天文台だかで接した宇宙の怖さとよく似ている。どこまで観測して考えても掴み所がなく、理解の及びそうにない得体の知れなさ、自分の世界とは遠くかけ離れているが確かに存在する外側、そういう意味でまさしく人の内面は“宇宙”と呼ばれるに値するかもしれない、などと思うのである。そんな訳でいっそ「対人恐怖症」を「内宇宙的恐怖」、あるいは「対内宇宙恐怖症」とでも言い換えればSFの匂いがしてくるかもしれない。そういうのが好きな人にはオススメです。