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外に在る「伝統」―岡本太郎『日本の伝統』―

衒学 音楽 デレマス 文化論

 こんちきちん。今回はこの小早川紗枝はんの楽曲の話から始めたい。※動画を貼り付けていたのだが消されてしまった(残当)。適当にどうにかして「花簪」という曲を聴いてからお読みいただきたい。本題とは関係ないけれど、デレマスの曲はどれもいいですね。コード進行とかアレンジとかどれも作り込まれていて、面白いです。楽典も知らなければ音感もロクにない野蛮人なので、具体的には説明できないけれど。で、かようなプロの職人のワザに対して僕がアレコレ言うのは日曜大工で犬小屋しか作ったことのない人間が桂離宮にイチャモンを付けるようなものでおこがましいのだけれど、そこはご寛恕していただかないと話が始まらない。

 僕がこの花簪を聴いて思ったのは、「やっぱりちょっと三味線とかの和楽器的な音、わざとらしいよね」ということだった。これは他の“和ロック”とか言われるような曲を聴いても思うことだ。この花簪という曲も良いものだと思うし、小早川紗枝はんはかわいいし、和的な音もけっこう溶け込んでいる方だと思うのだけれど、それでもやはりわざとらしいような、よそよそしいような印象を受けてしまう。

 むしろ、Aメロが終わった後からサビまで続くEDM的なオケの方が楽曲を支配している印象を受ける。この現代的なEDMの要素がやはり楽曲の土台になっているようで、和的な音はそこにデコレーションされているか、土台が捌けたイントロやアウトロでスポットライトを譲ってもらっているという具合に聞こえる。三味線?琴?の音はオケから浮いていて、いかにも「和楽器を使っていますよー」という感じを受けるのだ(一方、サビのメロの「おこしや↑ぁ↓す」みたいな日本的な感じを受ける小粋でさりげない節回しは好きだ。なぜこれを日本的な旋律と思うのかはよくわからないけれど)。

 これは編曲にイチャモンをつけているんじゃなくて、現代のポップス音楽に日本的なものを持ち込もうとすると当然そうなるはずだ、ということが言いたいのを理解してもらいたい。だってドレミファソラシドを使ってリズムは一定、コンピューターで打ち込みもして、となるとそれはもうどうあがいても西洋音楽的なものになるだろう。もしそこから離れる技術があって日本音楽的なものを徹底させても、相当奇異なものになってオタクを困惑させるだけだろう(余談だけど映画の攻殻機動隊のサントラなんかは、そういう奇異なものが演出上求められたのか、なんかすごい曲がくっついてある)。 

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 そもそも現代の日本人は、日本音楽的なものとは何かと問われてもまるで答えられない。「西洋音楽の手法を使わずに日本音楽の手法だけで表現してください」と言われたとしても日本音楽の手法なるものが何かわからないし、「和楽器だけを使ってください」と言われたとしても三味線で8ビートを刻んでペンタトニックフレーズを弾くのがオチだ。大体僕はさっきから「日本音楽」と呼んでいるけれど、どうも違和感があってこの言葉遣いが合ってるか自信がない。もはや日本的な音楽なるものをどう呼んだらいいのかさえ、わからない。それは一体雅楽なのか、民謡なのか、盆踊りなのか、なんなのか。沖縄民謡やアイヌの歌はどこに入る?

 三味線や尺八、和太鼓といったアレコレはどうにもよそよそしい。血が繋がっているとしても年に1回会うか会わないかの親戚のようで、どうにも他人行儀だ。それなら普段から話しているアメリカ人だかイギリス人だか(どころか彼らはもう米系英系の二世かもしれない)の方がよっぽど親近感を覚える。「伝統」は、どうしようもなくよそよそしい。

 最近岡本太郎の『日本の伝統』(1956年)という本を読んだのだけれど、ここで彼はこのように述べてある。

 つねに主張しているとおり、私は「伝統」を、古い形骸をうち破ることによって、かえってその内容―人間の生命力と可能性を強烈にうちひらき、展開させる、その原動力と考えたい。この言葉をきわめて革命的な意味でつかうのです。

 …「伝統」「伝統」と鬼の首でも取ったような気になっているこの言葉自体、トラディションの翻訳として明治後半に作られた新造語にすぎません。…いわゆる伝統とされているものの内容も様式も、大層にかつぎあげればあげるほど、かえって新鮮さを失い、新しい世代とは無縁になりつつある…まったく、日本には伝統そのものがないんじゃないかと疑いたくなる。

 つまり、彼の求めるところの「伝統」は現代において再解釈・再構成した上で活かすべきものであって、一般にいうような古い形式や様式を守り続けて決して進化しない「伝統」ではない、そもそもその後者の「伝統」でさえ若い日本人には縁がなく、日本人の中に脈々と受け継がれる「伝統」と呼べるものがあるのかさえ疑わしいという話だ。岡本太郎がこの文章を書いたのは今からちょうど60年も前のことで、現代においては一層「伝統」が無縁なものになっているのは言うまでもないだろう。

 「伝統」は外側に在って、博物館のショーケースの中に在る。ギターと三味線のどちらが普及しているかなんて、わざわざ調べてみるまでもない。岡本太郎も書いているように、「伝統」というのは元からして明治国家が作り上げたフィクショナルなものに過ぎない。「これが“日本”的なものですよ」というパッケージで、「日本、日本人とは何か」という問いかけにひとまずの答えをくれるものでしかない。和服を着れば日本的、和楽器を鳴らせば日本的という具合に、「日本」を指し示す記号であって、外国人の思い浮かべるサムラァイブシドーと同じようなものだろう(この記号を使って、「着物を着れば〇割引!」みたいな観光振興政策もされたりするのだから)。

 ところで日本人は日本・日本人論が好きだなぁといつも思うのだけれど、岡本太郎のような出征経験のあったりする戦中世代のそれは切実なものがあるように感じる。他には司馬遼太郎丸山真男も挙げられるし、中には三島由紀夫みたいに殉死した人間もいる。司馬遼や丸山真男なんかは昭和軍部を蛇蝎のごとく嫌悪していて、戦時期に唱えられたような日本精神なるものなんかへの警戒心と猜疑心は相当なものがあると思うのだけれど、それでも日本や日本人とは何かを問わざるを得ない。総力戦イデオロギーにおける空々しい「日本的なもの」の高まりとその破綻を目の当たりにした上で、それでも日本人として生きていく他ない、もしくは岡本太郎みたいにバリバリの国際人であっても絶えず日本人(非西洋人)を意識せざるを得ない、という時代状況がそうさせるようにも思うのだけど、どうだろう。

 特に構成とかも考えずに即興で書いたものだから、どうにもグダグダになってきた。もう投げっぱなしで終わっていいでしょうか。興味を覚えた人は岡本太郎の『日本の伝統』を読んでみてください。安いし読みやすいし面白いです。こんちきちん。