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健全な、あまりにも健全な

 「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉がある。ふとこれを思い出して、「文言はこれであってたっけ?」と思ったのでググッてWikipediaのページを見ていたらこんなことが書いてあった。

 近世になって世界規模の大戦が始まると状況は一変する。ナチス・ドイツを始めとする各国はスローガンとして「健全なる精神は健全なる身体に」を掲げ、さも身体を鍛えることによってのみ健全な精神が得られるかのような言葉へ恣意的に改竄し、軍国主義を推し進めた。その結果、本来の意味は忘れ去られ、戦後教育などでも誤った意味で広まることとなった。このような誤用に基づいたスローガンは現在でも世界各国の軍隊やスポーツ業界を始めとする体育会系分野において深く根付いている。[1] 

 驚愕の事実。要するにこの「健全な精神は健全な肉体に宿る」は全体主義のスローガンに用いられた(本来とは意味の異なる)フレーズだという話である。これは非常に示唆的だなぁと思ったのだけれど、そういう風に思ったのは、この言葉について以下のように考えていたからだ。

  健全な精神は健全な肉体に宿る。これが如何に誤用であったとはいえ今でも残っているのは、この言葉が多くの人の感覚に沿うものだったからだと考えるのはそう突飛ではないだろう。じゃあこの「健全な○○は健全な○○に宿る」を常識に沿って拡大していったらどうなるだろうか。

 「健全な肉体は健全な母体に宿る」。いきなりフェミニスト激怒コースの文言になっただろうか。それでも常識的な感覚には近いはずだ。あまり首肯し難いなら「健全な肉体は健全な食事に宿る」。これでどうだろう。食育を表した大事なフレーズになりましたね。

 では次、「健全な食事は健全な家計に宿る」。これもけっこうシビアな話になった。一般論だが、家庭が貧乏になっていくと食事は目に見えて質素になっていくもんだ。いつの間にか一品減っていたり親が明らかに食べる量を減らしたりする。もちろんやりくり上手なお母様もおられるだろうが、このフレーズも決して虚偽とは言い難いだろう。

 長くなるので一気に行こう。「健全な家計は健全な職業に宿る」。「健全な職業は健全な経歴に宿る」。「健全な経歴は健全な勤労意欲(or 向学心)に宿る」。健全な勤労意欲は健全な…さて何に宿るだろう。ここは政治思想の分かれ目だろう。自由主義者なら恐らく「報酬」と答え、社会主義者なら「福利厚生」あたりか。そして冒頭のファシズム国家や全体主義国家なら「忠誠心」辺りで答えたはずだ。

 さてこのように見たならば、「健全な…」は実は何らかの思想的立場から発せられた言葉だと言えないだろうか。「いやそれはあなたが勝手に拡大したからでしょ」と言われるかもしれない。では逆に聞きたいのだが、「健全な」とはなんぞや?手元にある国語辞典を見たならば「①すこやかで異常がないさま。②かたよらず中正なこと。」とある。「異常がない」「中正な」、いずれも何らかの基準がないと判断できないんじゃないか?

 どんな人間社会にも判断基準が埋め込まれており、それらはその社会の在り方や場所や時代で変化する。例えば現代日本の往来で素っ裸になったら健全(=異常がない)とは見做されないだろう。もちろん即通報だ。ところがこれがアマゾンの奥地とかアフリカのサバンナに住む原始的な部族(※〈政治〉的に正しくない表現)ならば?じゃあ(シモい話が続くが)現代日本の往来で女の人が下を脱いで用を足し始めたら?「お前は何を言っているんだ」と思われただろうが、実は平安時代の京都ではそんなことはよく見かける光景だったという史料が残ってある。平安期の日本において野グソは至って健全な行為だったと言ってもいいだろう。「健全」、「異常がない」ことの基準は全くもって流動的なものだし、絶対的なものじゃない。

 しかしそういった流動的な基準――いつもの如く”規範”と呼ぼう――はむしろ絶対的なものとして振る舞う。だからこそそれに歯向かうヌーディストなんてのもいたりする訳だけど、さすがに「野グソしようぜ!運動」みたいなものは出てこない(さっきから僕は何を言ってるんだろう)。ある社会に属す人間はこういった規範を読み取ったり教わったりして、大体はさほど疑問に思うこともなく従っている。そうしていた方が個人にとって得だから、快適だからという考え方もできるだろうけれど、もう少し突っ込んで言えばこういった規範の役割は“社会を維持すること”に尽きるはずだ。目上の人を敬わなければ社会秩序が維持されない、人のものを奪って良いし人を殺して良いとなったら社会は崩壊する。多分もっと頭のいい人はここから法理論とかの話に繋げるはずで、ホッブズの言う万人の万人に対する闘争が~とか言うはずだけど、ちょっと僕には手に負えない。

 だからここで冒頭に戻ろう。「健全な精神は健全な肉体に宿る」はファシズム軍国主義全体主義国家の用いたスローガンだった。しかし、さっき言ったように「健全」の判断はその社会内の規範に拠ったもので、その規範はどんな社会にも内在されているはずのものだ。戦時スローガンはそれを強調したものに過ぎない。ファシズム理論において、こういった特徴を”強制的同質化”(ドイツ語でグライヒシャルトゥングと言うとかっこいい)、要するに権力を集中してみんなを同じような“国民”にしちゃうみたいな話で説明することもできるだろうし、総力戦体制における平準化っていう話もできるだろう(第一日本において健全な肉体を作るための厚生省が設置されたのは戦争遂行のため、日中戦争下のことだった)。

 なけなしの歴史知識をひけらかしてしまった。けれどここで敢えて歴史学的でない言い方をしようと思う。ファシズムは遍在する。第二次世界大戦辺りの特殊な話ではないはずだと。もちろん現代日本にはナチスヒトラーもいないし戦争もやってない(安倍首相をヒトラー扱いする人もいるけどレッテル張り以外の何物でもない)。けれども、社会があって(「健全」を判断するような)“規範”があって誰をもそれに従わせようとする構造は、程度が違うだけで(その程度が歴史学的には重要なんだろうけれど)現代日本にも、どこの時代のどこの国にも存在する。“規範”に拠って「健全」を判断するならば、それは実のところ最初から「②かたよらず中正なこと」ではなかった訳だ。アフォリズムみたいにかっこつけて言えば「この世で最も不健全なものは『健全』それ自体である」。もちろんこれが黒めの冗談にしかならないことは承知しているし、そのように「健全」を捉えたとしても明日も明後日も服を着て家を出る以外に手立てはない。けれども、少なくとも、「健全」と書いた棍棒で人を殴りに行くことぐらいはやめておきたいと思うのである。

 

 

 

 

[1] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%B9