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思想というものが少しわかってきた(気がする)

    思想というものが少しわかってきた(気がする)。というのは、情報として「思想とはこれこれこんなものである」ということを知ったというのとは違って、「上手く説明できないけどベースというのはこういう風に弾ける」みたいなもっと身体的というか、まさしく"体得"したというようなものである気がしている。冒頭から、説明できないものを説明します、と言ってしまった感があるけど、この文章大丈夫なのだろうか。

    結論から言えば、思想というものは選択できるものではなく、ある側面では理性によるものではないということになる。というのも僕は今まで一つ誤解をしていて、思想というものは色んな思想書だとかを読んで内容を知り、比較して、検討して、これが良いと思って選び取るものなのだと思っていた。確かに表層的にはそのように見えるし、そういう風にして「思想を選び取った」とする人も在るだろう(いわゆる転向をするのはこういうタイプなのかも)。例えば、日本の発展のためには民主主義でいくべきだ、とか国家を成り立たせるためには社会主義が必要だ、とかそういう在り方ね。

     確かにそういった形は往々にして見かけるものだけど、むしろ思想とは本質的には直感され、選び取る以前にそうとしか考えられなくなったというものではないかと思う。思想は選べるものではなくて、気付かぬ内に形成され、個人を規定するものなのだと。そこには「こっちの方がいいだろう」みたいな理性的判断が働く余地はなく、そう見えたとしてもそれは後付け以外の何物でもない。

    だいたい、思想家とか哲学者とか呼ばれる人たちは多くがどうしようもなく不器用な生き方をする。例えばニーチェなんかはツァラトゥストラなんて書かずに文献学者を続けてれば地位も名誉も富も得られたはずだ。一般的な幸福の基準からすれば、その方が「良い人生」になったのだろうが、彼にはそれはできず、自分の思想を唱えて自分の思う「善い人生」を送ろうとする他なかったのだろう。彼らは大体、「いらんことしぃ」[1]なのだ。マキャベリは諦めて田舎でワイン作ってれば良かったのだし、ウィトゲンシュタインは変人扱いされながら小学校の先生をやってれば良かったのに彼らは「いらんこと」に手を出さずにいられない。(もちろん世渡り上手な思想家もいるけれど。)
 
    こういう例を見ていると、どうにも連想されてならないのは宗教家と呼ばれる類の人々だ。例えばマザーテレサというのは有名だけど、あれもインドなんか行かずに先進国で適当に尼さんやってる方が安穏な人生にはなっただろう。けれども彼女はいわゆる信仰の情熱みたいなものに突き動かされて、インドのスラム街に突き出されてしまう。もしくは、浄土真宗開祖の親鸞歎異抄』には「自分は浄土宗の教えを信じてるけど、たとえ、法然上人に騙されていて、念仏のせいで地獄に落ちるのだとしても後悔はないよ」と書いているらしいのだけど、こういった在り方も先述の思想家に通ずるものがあるような気がする。彼らには「私はこのように信ずる」が重要なのであって、そのせいで地獄に落ちようが、それが評価されまいが理解されまいが、二の次なのじゃないか。
   言い換えれば、思想も信仰も主観的に現れるものであって、さほど理由のない(つけられない)情熱に支えられるものではないだろうかということだ。少なくとも強固な思想と呼び得るものはそのような形を取るであろうし、真に思想的なるものはそうならざるを得ない。そこにあるのは「こちらの方が良いだろう」というような相対的な判断ではなく、答えのない問題に対する絶対的な「然り!」である訳だ(ニーチェっぽい表現)。選び取る以前に思想はその人の中で既に存在していて、形作られるのを待ってある。「ニーチェを読みふけるようになったら終わりだ」なんていう定型句があるらしいけれど、恐らくその人はニーチェを読みふけって終わったのではなく、ニーチェを読もうとした時点で終わっていたのだろう。
 
    さてここまで思想家について適当かつ冗長に書いてきたのだけれど、この辺りで我々の話をしなければいけない。一般的に言って、多分"思想家"という言葉は"危ない人"と同義だと思われてる向きがあるだろう。その通りだ。彼らは「いらんことしぃ」で常識の破壊者なのだから。しかし、思想というものが、本質的には何か高邁な学識に基づくものでも膨大な知識で出来上がるものでもないとするなら、直感によって生み出され情熱で保持されるものだとするなら、一般人たるあなたの中にも思想のタネが植わっているとは考えられないだろうか。世の中に何か一つでも疑問を感じたことはないだろうか?この世界だとか認識の在り方だとかについてふと妄想じみた考えを持ったことはないだろうか?人間とは何かわからなくなったことがないだろうか?みんなどいつもこいつも自分も狂ってるんじゃないかと思ったことは?もし本当にどれも全くないのなら何も言えることはないけれど、大抵の人はその経験を外在的な常識観念とか、いわゆる厨二病とかのカテゴライズで茶化してきたのかもしれない。それらの"思想のタネ"と常識との乖離や矛盾、それらは本当に見逃してしまっていいものだろうか。
 
   もし何らかの思想を得たいと思うなら、外に在る思想書だとかを読むだけでなく、そういった内側にある"タネ"に目を向けた方がいいだろう。けれどもその"タネ"をすくすくと成長させたならば、それは今まで持ってきた当たり前の観念を根やら幹やらで押しのけてしまうだろうし、そこまで成長してはもはや引っこ抜くことはできなくなっているだろう。旧日本海軍だとかの例を出すまでもなく、ドクトリンはなかなか変えられないものだ。ある方針や考えを大事に育ててきたところで、やっぱり止めだと言ってもそう簡単に変えられるものでもない。もし安穏に過ごしていたいなら、"思想のタネ"は育てず気付かず、そのままにしておいた方がいいだろう。ただし、そういった"タネ"に覆い被さった当たり前の観念の方が勝手にボロボロ崩れてしまうということも、歴史的にはまぁよくあるものだという事実は一つ押さえておいた方がいいかもしれない。
 
 
 
 
 
[1] 余計なことをする人の意。なお筆者の住む地域では正確には「いなんことしぃ」と言うことが多い(お里が知れてしまう…)。”inanquotecy”とか言うと英英辞典の片隅にありそう。