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ただの日記 +平沢進論(α)

    パソコンを買った。借金で買った。いや、僕も一応バイトくらいはしているので、その給料で買ったと言い張ることが出来るレベルの価格帯には抑えてあるけれども。なんのために買ったかというと、まぁこれでシヴィライゼーションが快適に遊べるなーとも思っていたけれど、主目的はDTMを始めたいということにあった。だからDAWやらオーディオインターフェースやらも買った。もちろん借金で。

 

    元々なんやかんや十年以上、生楽器を弾いて生演奏をしてきたにも関わらず、ここに来てかようなデジタルでスタンドアローンな方法に手を出したことについては色々な曲折とか理由があるのだけれど、ただでさえ下らない自分語りをより冗長にするのはやめておく。とにかくそういった形態に今は魅力を感じるのだ、という一言で済ませておこう。

 
    僕が選んだDAWsonarというやつで、その理由はギターの録音に向いてるからとかなんとかもあるけれど結局は平沢進が使っているからという理由に過ぎない。「ワタシ アンタのミーハーミーハー」という訳だ。僕がtalboという血迷ったようなギターを使っているのもそうだし、最近読んでいる数冊の本に手を出した理由も、平沢のせいにしようと思えばできそうに思える。まぁ人の頭の中身なぞ蓋を開ければそんなもんだろうとも思う。誰でも誰かの借り物でできていて、そうでなければすっからかんなのだと。——もっとも、だからこそ、それらを自分の血肉にできているか、考えること、発言すること、表現することは内発的であるか否かが何よりも重大なのだとも思う。
 
 
    それで、こういう打ち込みみたいなものはせいぜい簡単なフリーソフトを触っていたぐらいで経験がないし、パソコンに強い訳でもないから取り敢えず慣れて覚えていくしかあるまいと思って最近は色々といじっていた訳だ。とはいえこれが音楽制作ツールである以上、ただいじるだけというのは不可能なのは当然で、何かしら作ろうとする楽曲が必要なのは言うまでもない。前から貯めていた自作のストックを使ってもいいのだけど、さすがにいきなり手を出すのはどうにも躊躇われるし、座礁しそうだ。ブルースなんかは単純過ぎかつ演奏に依存し過ぎてて良い練習材料にはならない。
 
 
   そんな訳で僕が手を出したのはまたしても平沢進だった。p-modeloh mama!という曲を勝手にあれこれアレンジを変えたりして音源を作ってしまおうということを考えたのだった。昨日は久しぶりに家に1日引き込もれる日だったので大半をそれに費やして(本当は研究したり本読んだりもしようと思ってたのだけど)、あとはラスサビを打ち込んで、二、三箇所の作り直しとギターベースの録り直し、問題の歌録り、で取り敢えず形にはなろうというところまで進んだ(こう書くとあんまり進んでなさそう)。ネットに上げたりするかは何ら予定がないけれど、音沙汰がなかったら「あぁ結局挫折したんだな」と笑われたし。自分の意思が折れたり変わったりしないか、っていうのはいつも不安だなと思う。もっと強い意志を持てたらな、とどうもここ5,6年間で思うことが多かったような気がする。もっとも、さっさと未練がましい「意志」など捨てて変節した方が、大体において利口で賢明かつ世渡り上手なのだろうと鼻で笑いたくもなるが。
 
 
    世渡りと言ったが、oh mama!はそういったものに対する疲れみたいな話なんじゃないかとなんとなく解釈している。さすがに自分が演奏したりする曲に対して解釈を持ち合わせないのは不味かろう(歌詞知らないからトランペット吹けない、などと言うほどのこだわりもないけれど)。多分"ドアの開けざまに張り倒されるママ"というのは外部に出て行く時に損なわれる安心感みたいなものじゃなかろうか。ここでのママー!とは現実の母ではなくユング心理学に言うアニマのようなもので〜というオギャるオタクのコピペと同じ話で、ここのママは幼児体験にあるような安心感包容感のようなものなのだと。母は——それが血と肉体によって定義されるものであるにも関わらず——肉体ではあり得ず人格でもあり得ない。思慕され懐古される経験であり概念に他ならないからだ。だからオタクはオギャる。そしてそれがなぜ思慕され懐古されるのかと言えば、幼児期を過ぎて"ボクとキミ"の関係とその複合からなる人間社会を知覚したとき、安心感包容感は決定的に失われるからだろう。
 
 
   この辺りの話がまとまったのは同じくp-model時代の「オハヨウ」を聴いていた時だった。「オハヨウ」と言った途端にボクとキミという人間関係が生まれてしまって、とけるオハヨウは失われてしまう。だから「サヨナラ」と言ってボクはボクに、キミはキミにさよならしよう、ボクもキミもいないオハヨウの中に戻ろうと。平沢作の中では珍しい、小学校の教科書にも載せれそうな詩的な作品だと思うが、ここでの「オハヨウ」は一つの原始状態を指していて、私と他者という隔絶が存在しない、他者は私であり私は他者である合一された世界とでも言うべきものだろう。エヴァンゲリオンのラストなんかを思い浮かべてもらえるとわかりやすいと思う(80〜90年代サブカルはずっとこういう問題に首突っ込み続けてきたのだろうか)。
 
 そういった原始状態を失った世界(=認識)から、かろうじて夜は隠れ家に逃げ込み、自分だけの世界、ないしは自分の中にかろうじて息づくママを懐古したりするも、起き抜けには「ドアの開けざまにママはりたおせ」の呼び声がしたりして、夢から覚めれば息の輪を吐くほかない。ママをはりたおしてドアを開ければ、慣れた道もどうにも遠く思われてならない。そんなイメージ。昨日はなんだか眠れておらず、幸い今日は用事も遅いので、もう少しママをはりたおすのは先延ばしにして、晴れて眠ることにしようと思う。
 
 
 
 
 追記。そもそもoh mama!を選んだのはこういう風にあれこれ考えたからではなくて、単純に簡単そうだったからという理由に過ぎない。ところがどっこいAメロの音使いなんかは改めて音を取ってみてその珍妙さに驚き、今までまるで気付かなかったことにヘコむ羽目になった。かくして”ママ”をはりたおすことで、他者を音楽その他ではりたおすこと(すなわちコミュニケーション)もようやく出来るようになるというのもまた一面の真実だろう。