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非政治的政治談議:現代政治の見取り図

雑文

 政治の話はやめておこうと思っていたのだが、思いついたので書いてしまう。可能な限り自己への呵責を捨て去るのが本ブログの趣旨である。しかしここで「反アベ」とか「日本の心がどうちゃらこうちゃら」などと言っても興醒め以外の何物でもない。そんなテンプレート、文脈に支配された言説に用はないし、そんなものは議論を喚起する力もない。よって本稿の目的はこの文脈を放り投げることに置くのであり、そのために一つの視点を仮に作ってみようということになる。これを称して—政治的立場を取らないとしながらそれ自体の政治性を否定しがたい点をも含め—“非政治的政治談議”と言う。

  2016年現在の政治状況の特色はどこにあるか、という問いにはいくつもの答えが考えられようが、ここでは与党―野党間の対立が強まり、その構図がほぼ出来上がりつつあることというのは一つ言えるだろう。ではその対立の争点は何か。安全保障法案。などとチンケなことは言わない。そういった個別的争点よりも、その背後にある大きな文脈をこそ見るべきだろう。話が逸れるようだが、「保守」という分類があり、概ね現代日本で保守政党と言えば自民党を指す(そういえばシン・ゴジラにも「保守第一党」というテロップが出ていた)。しかし戦後日本の大きな特色として、「保守は何を保守するのか」の不明瞭さがある。この「保守は何を保守するのか」という問いから話を始めてみたい。

 自民党は何を保守するのか?いわゆる右寄りの人間に聞いたならば「日本の伝統」だとかなんだとか答えるだろうし、実際に「日本を取り戻す」のスローガンもある。しかし、この「日本」はあくまでフィクショナルものに過ぎない。そこに本質はない。この点を指して為される「戦前(大日本帝国)回帰」という批判も同様に的外れである。政党は戦前日本、すなわち明治憲法体制には回帰しない。明治憲法下では政党は超越的な政治主体足り得ず、政権は官僚・軍人によって担われることがあり得た。政党に政権が任される時でさえそれは選挙の結果(=民意)を反映するシステムによるものではなく、あくまで天皇による大権降下に他ならない。多少の断絶を挟みつつも60年間政権を握り続けた政党がこのような体制に回帰する動機などあり得るはずがない。その構想と行動が「戦前回帰」に見えたとしても、それは“見えるだけ”の別物であることに留意すべきであるし、それ故に「戦前回帰」の語は使うべきでないだろう。それはレッテルに過ぎず、生産的な議論にはならず効率的な闘争でもない。

 やや話が逸れた。それで「自民党は何を保守するのか?」に戻り、これに単刀直入に答えると、その答えは55年体制、つまり自民党による政権(ほぼ)独占状態ということになるだろう。そのためにこそ此の党は経済対策をし、国民統合を強化し、「強い日本」たらしめようとする訳である。それに対する野党は当然この55年体制の打破を目標とすることになる。これは2009年時点では二大政党制の強調という形を取っていたとも言言える。

 このように55年体制を軸とするならば与党―野党は保守―革新の図式を見せる。しかし、軸を日本国憲法に置いたならば様相は反転する。改憲勢力たる自民党はここでは“保守”たり得ないのは明らかだろう。右派が持ち出すところであろう「日本を保守するための改憲」などという論理はイデオロギー的粉飾に過ぎない。これが戦後間もない時期であれば改憲は保守を意味し得たであろうが、すでに70年の実績を持つに至った日本国憲法とその体制の変革は—それ以前に存在した「日本」を仮定しない限り—革新的行為以外の何物でもない(ここで「革新」という言葉自体が持つシンボル機能に惑わされてはいけない。“革新=良いこと”という図式がもし浮かんだならば、ひとまずそれを横に置いてもらいたい。ここでは“保守―革新”の対応関係で用いられているのみである)。同様に護憲勢力たる野党はここでは保守の位置に置かれる。彼らは、日本国憲法体制が持つ政党の制度的優越性、及び軍たり得ない軍に対する優越性を保守しようとする。——しかしここには二つの論理的矛盾が胚胎されており、それらは放置されたままである。その一つは、敵対する相手もまた政党であることである。政党や民主主義の制度的優越性(=「立憲主義」)を唱えても、相手にそれを根本的に破壊する意図がない以上、有効な批判にはなり得ないだろう(これを有効たらしめるには敵を“ファシスト”扱いすることになるが、当然これも(少なくとも現時点では)レッテルに他ならない)。その意味で「立憲主義」の高唱は言説として十分に力を持ちえない。軍たり得ない軍に対する優越性、すなわち九条護持を旧来通り唱えた方が効力は強くなるだろう。二つ目は、この日本国憲法体制が持続し得た要因は冷戦構造の存在に他ならないことである。日本が軍を(少なくとも名目上は)保持せずに済んだのは、核抑止によって日本に軍事的・実際的脅威が及び得なかったからであった(及んだ時は世界が滅亡する時であったのだから)。よってこの核抑止の論理を基盤とした冷戦構造が消え去り、軍事力によって権益拡張を図るアクター——つまり中国のことだが——が現れ、加えて軍事力の代理人たるアメリカがそれへの対抗に消極姿勢を示した時、日本国憲法体制の再生産は困難となる。故にこの状況下で現憲法体制護持を唱えるならば、これに対して非軍事的対策を示し得ない以上は、脅威の存在を無視する他ない。そしてそれは政治の持つ“現実主義の陥穽”にはまず対抗し得まい。

 以上、思いつくまま特に下調べすることもなくつらつら書き述べてきた。本稿の主旨を一言でまとめておくならば、現代政治の真の争点とは55年体制日本国憲法体制にあるということになる。特に後者はその再生産要因を欠いている以上、改憲するにせよ、護持するにせよ、新たなシステムと論理が用意されねばならないだろう。政治的立場を避けたいと言いながら、どうにも野党批判の色が強くなってしまったようにも思う。しかしどうにか、視点を広くすることで既存の文脈から離れたいものだ(それが当たっているかはともかく)。それはそれとして、そういった見方を踏まえた政治参加の在り方がどうとかのまたシチメンドクサイ話が残っているのだけど、それは今はやめにしておくし、今後も書くかどうかは知らない。