終末世界の気分について

 大体くだらない文章を書きたくなるのは眠れないときで、それも単純に生活リズムが狂っているせいで大して疲れてはいないときだ。そういったときは、概ね適度に気分が沈んで適度に頭が働き、けれどもその向く先は全く余分(余分とはなんぞや?)なことであるのが大抵だ。何かを書くくらいなら、するべきことを進めるか(論文も書かなければいけないし、今月いっぱいの仕事も手を付けられていない)ベッドで横になっていた方が良い。けれどもたまには思いつきを書き残しておくのもまぁ悪くはないと思う。

  『少女終末旅行』のことを考えていて、アニメ化されたものを観ながら「こんな話だっけ」と思っていたのだが、原作を読み直すと確かにそういう話だった。原作は一つしか無いのに、そこから受けた印象や、拾い上げる要素の違いで両極端に分かれてしまう感がある。最新刊と一巻との雰囲気の差異なのかもしれないが、どうもそんな気もしない。アンソロジーも読んだが、どうも、僕(あるいは僕の周りの人)がこの漫画の良さだと思っているものと、全く違うものを他の人間が読んでいることは普通にあるようだ。ここで“正しい読み”が在りうるかとか「作者の死」とかそういう話をするつもりはない。

 

 この漫画の魅力の一つは恐らく独特な世界観から出てくる終末世界の風景にあって、この点は概ね万人の認めるところだろう(アニメ化もこれを活かしてある)。当然それは現代の、普通の都市の風景とは異質なものだ。一方で現代世界に在るはずの僕自身が感じているこの本の魅力の一つは、そのような終末世界を歩いているはずの主人公らと同じ気分を共有しているように思われることだ。それはある程度明確にあって、言葉にすれば、“全てが既に終わっており、終わった中でどのような気分で続けるかが迫られている”というような具合の気分。「気分を問われるような気分」とは変な表現だが、ここは一つ言語化できない領域ということで許してもらいたい。ひょっとすると作者もそんな気分でいるんじゃないか、と「作者」を想定してしまうのだが、まぁそんな話も置いといて良いだろう。

 

 問題は(この文章で何かを問題提起するつもりもないが)、現代の、この消費文明の爛熟の中で生きていて、なぜそういった“終末世界”的な心象が現れるのかということだ。(とはいえ、平安時代には末法の世が意識され、キリスト世界では常にキリストの再誕やこの世の終わりが意識されていたのだから、人間の認識としてはそう特殊でないのかもしれない。ちなみに、現在ちょうどこの作品でイメージするような「ポストアポカリプス」の起源は冷戦、第二次世界大戦、さらにさかのぼって第一次世界大戦からでないかと思っているのだが、どうだろう?)ここで思い出したのが、ミシェル・ウエルベックの『ある島の可能性』や『服従』の雰囲気(彼の小説はこの二つしか読んでない)。特に前者はある意味「人間後の世界」を描いている点でより終末世界のイメージに近いが、この二作品で問題にされているのは人間的幸福の喪失ということだ。つまり、日本で言えば一億総中流の社会をイメージすればわかりやすいが、そういった家庭的な幸福は失われたということ。それは個人の問題ではなくて、文明の発展や社会構造の変化によってであるということ。だからこそこの作者の作品では人間の文明が滅亡し、ヨーロッパの誇る文明がイスラム服従する。近代以後における人類の発展は、人間的幸福を求めながら実のところ生物的直感に連なる幸福を追いやってしまったということであり、共同体の中での安心を売り払って個人的消費の享楽を買ってしまったという問題がここにはある。そのような世界で人間が描き得る幸福とは一体何が残っていると言うのか、というのがウエルベックのテーゼであり、いかにもフランス人好みらしいところだ。

 

 現代は既に人間が終わった後の世界なのでしょうか。多分、人間社会から心的にはじき出された人間がそう思うだけで、人間社会は延々と続いていくんじゃないだろうか。もっともそこに人間的なものがあるかは別で、人間的とは何なのかという問題もまた延々と続くように思われる。