テンポ正しく生存しましょう
愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。
と書いたのは昭和戦前期の詩人中原中也で、「春日狂想」という詩の中でのことだ。中原中也なんていう詩人は、「どんな音楽聴くの?」「ビートルズかな…」とかの受け答えと同じ程度にはもう手垢にまみれているものの、良いものは良い。ことに「春日狂想」は、これまた“let it be”を挙げるぐらいには面白みがないのだとしても、良いものは良い。
あるタイプの人間にとって自殺という手段・観念ほど親しんだものはなく、お好みの方法やシチュエーションぐらいは用意しておくのが自称文化人の嗜みだろう。そんな自称文化人ほどしぶとく、だらだら生存し、案外、道で会ったら会釈するだろうぐらいの知り合いがふっと自殺したりして、深刻ぶった顔をしながら、その実、対応に困っていたりするようなものである。
この「春日狂想」に、タイトル通りの狂想狂気を見てはいけないというのも何度指摘されているか知らない。先の引用部分の後はこのように続く。
けれどもそれでも、業(?)が深くて、
なおもながらうことともなったら、
奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。
愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持に、ならなきゃあならない。
奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。
そこで以前より、本なら熟読。
そこで以前より、人には丁寧。
テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田を敬虔に編み――
まるでこれでは、玩具の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。
これが書かれたのが作者の息子が病死した後で、とかいうこれまたありがちな能書きはいらない。ここに見るべきは、深刻な悲しさと切実な滑稽さだろう。詩人は死人のために何もできないのであって、できるのはせいぜい真剣に敬虔に真面目に生きてみるくらいだが、どうにも滑稽で悲しい。生きる人間は根本からして滑稽で悲しいものだという気がする。
手垢のついた詩を取り上げて評論に見せかけた愚痴を書いても何にもならない。人の作品を語るフリをして自分語りをすることほど、それこそ滑稽なこともない(ロッ◯ンオンジャ◯ンの記事みたいなもんである)。あとは自分で読んでみて欲しい。ググれば出てくる。読まなくても構わない。
とはいえ締まらないので最後の部分だけ。
ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしましょう。
つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。
ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。
自殺しなければ、と始まったこの作品が「テンポ正しく」、「実直」を呼びかけて終わることは見逃すべきでない。その「実直」も、どうにも「玩具の兵隊」じみて滑稽で、おどけているけれども、それでも「実直」が必要なのだという。つまるところ、テンポ正しく、滑稽に、生存するのである。テンポ正しく生存しましょう(しなくても良し)。