過去の他者性について

 出身地には旧い街道が通っており、そこに住んでいた頃は、時折遠回りになるその道を選んで帰ることがあった。職業(?)柄、あるいは元からの性分として古いものを見たり眺めたりするのは好きで、その街道の道幅の狭さや形、所々に残る屋敷が醸す近世風の趣、恐らく八〇年ほど前に建てられたであろう建物も入り交じる様は、そういった好みを満足させるものだった。それらを見ることの愉しみが何に由来するのかは知らない。あるいは単にそこに含まれた情報量が想像を刺激するのかもしれないし、そうであれば、アンテナの張り方が違えばコピー・アンド・ペーストのニュータウンも同じように楽しめるのだろう。

 

 ただ、それら古いものを眺め、想像したときに避けようなく起こる、不安感や寂寞、物悲しさとでも言うべき感覚はなんだろうと思う。それらがかつてのように使われていた頃の様子、そこにいた人、そこで起こったこと等を知る術は失われており、ただ時間を経た空間がそれらの一端を想起させている。空間の同一性が、むしろ時間の相違が生じさせる絶対的な懸隔を明瞭に見せているのかもしれない。“思い浮かべられる=思い浮かべることしかできない”という事実は、何一つ想起不可能な状況よりも“わからなさ”、“わかり合えなさ”を突きつける。現在的世界の、内側に含まれていたはずの外部性を前にして、融和が不可能であることを思い知らせる。ここでは何が理解できないか、何と融和できないかさえ判然としない。対象は、いわばその空間に“あったらしい”事象の総体であって、そのディテールを掴むことはできないし、見て取った輪郭さえもその正しさは確かめられない。歴史、過去の事実の内、確かめられるものはいかにも少ない。特に現代からして有用と思われないそれは、大抵は既に埋もれきってしまって“あったらしい”ことさえ朧気になっていく。その有り様、というよりも「無い様」を見ることは、我々がいずれそのように無くなるということを意識させる。「我々」という現在性を前提にしてようやく成立する集団は、いずれ現在性の外部に追放される[1]

 

 ロラン・バルトは写真について、「ここに/あった」の語でその性質を理解している。すなわち写真は、当然ながら、過去を写したものであり、“既に存在しない”ものを写し取っている。しかしそのことは、写真によって明るみに出されてはいるものの、写真という媒体に限った性質ではないだろう。例えば私が今朝の風景、あるいは昨日、一年前の風景を脳裏に描くとする。そこで私が見るものもまた「ここ(私の眼前、脳内)に/あった」、“既に存在しない”ということに変わりがない。写真も、私の記憶も、“既に存在しない”ものを写し取っているという点で同質である。

 

 この“既に存在しない”をバルトは“死んだもの”とも言い換えたそうだが、記憶、個人が思い返す物々もまた同様である。かくして、“私の記憶”が旧い街道や一枚の写真と変わりがなくなっていく。忘却され、“既に存在しない”ものの総体としての記憶は、ディテールを失い、曖昧な輪郭を確かめる術も次第に無くなり、理解し得ないものとして断絶され、“私”の外部へと切り離されていく。「思い出」と言われるもの、多義的な心地よさをコノテーションとするそれは、今なお理解できる対象であることを条件に成立するように思われる。今なお理解可能と思われること、あるいはその虚偽性が暴かれないことが、現在との断絶を生じさせないまま、記憶を自我の内部に留まらせるための絶対条件である。人は複数人集まった際に、その集団が共有する過去について述べること(思い出話)にある種の快感を覚えるが、それは切り離されゆく記憶を内部へとつなぎ直そうとする意味をもつことによるのだろう。

 

 しかし、そういった「思い出」としての心地よさ、内部性が失われたとき、記憶が外部性・他者性を突きつける単なる過去の事象総体としか思えなくなったとき、それらをどのように処することができるのであろうか?[2]そのとき、どこまでも不確かな記憶は、何ら知る術のない旧街道や一枚の写真と変わらない他者でしかあり得ない。とすれば、あるいは、記憶や自身の過去というものを“既に私ではないもの”、他者として味わい、その理解し得なさをただじっくりと眺めることが、切り離された過去に対しあり得べき姿勢なのかもしれない。

 

 

 

 

 

[1] 「日本人」といった民族集団のように限りない過去を含めた「我々」も考え得るが、それが結局“現代とつながる人々”で以って想像され、変形され、偽造される以上、やはり「我々」は常に現在的なものとしてしかあり得ないのではないか。

[2] この問題はトラウマとは真逆のものである。トラウマが強迫的な“再体験”を伴うのに対し、ここで問題とされている記憶の他者性は、過去の事象を決して再体験できないことに由来するからである。