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平沢進論(2)―「みなしご志願」の平沢進―

 前回の「平沢進論(1)」ではどうやら彼の歌詞には” 〈本来のものが現れる〉/〈既存のマヤカシが消える〉”の類型があるらしいという話をした。今回はこれの続きとして、〈既存のマヤカシ〉(=ホログラム)の中身について考えてみたい。

 ここでわりとありがちな考え方として最近の時事ネタから攻めるというのもあるだろう。要するに原発とか震災の話として「ホログラムを登る男」を読もうみたいなやつだけれど、この文章ではそういう切り口は取らないことにする。確かに平沢は震災以後、それらについては概ね積極的に発言していたし、その作品についてもそういった問題意識から作られた側面があることは否定できないけれど、僕はむしろ現在的な問題に対する姿勢を生み出すような、平沢の根本的な物の考え方に興味がある。そしてそれは間違いなく震災以前からあるものであるし、はっきり言って大部分はp-model時代から既にあったものだと思うのである。

  という訳で唐突なのだけれど、p-modelの2nd.アルバム「LANDSALE」の時に書かれた詩(?)からまず話を始めようと思う。はっきり言って直接的過ぎて陳腐だし、さしもの平沢も布団に顔を埋めるシロモノなんじゃないかと思うが、容赦なく全文引用する。

  ボクはみなしご志願の夜にげ人

  無賃乗車の売国奴

  だれのためにでもなく

  ただ自分のためにだけ

  移動しつづけたい

 

  ボクはみなしご志願の夜にげ人

  ひとつの土地や

  ひとつのしぐさに

  ぼくがいだいたこの気持

  殺したい

 

  ボクはみなしご志願の夜にげ人

  レミングの大移動でもなく

  人民の集団そかいでもなく

  しょせんひとりの孤独者として

  このおろかしくやっかいな個人が

  愛を維持して行くために

 

  ボクはみなしご志願の夜にげ人

  無賃乗車の売国奴

  ボクはみなしご志願の夜にげ人

  すべての愛着を殺したい

 長い。が、これほど平沢のスタンスを直接的に表したものもなかなかないだろう。平沢は「みなしご志願の夜逃げ人」であり「売国奴」であって「すべての愛着を殺したい」のである。若気の至り感もなくはないが、恐らく現在のスタンスも本質的には変わらないだろう。つまり、ここでは国家に代表されるような、僕がよく使う言葉で言い換えれば社会的な規範、要するに自分の外側に在りながら自分という存在が何であるかを決めてしまうようなアレコレ、から逃れたいというものだ。この規範が国家である場合、そこから逃れるには「無賃乗車の売国奴」になる他ないし、日本という「ひとつの土地」や例えば天皇陛下万歳といったような「ひとつのしぐさ」への愛着は殺す他ない。もしくは”家”もまた社会的な規範と捉えるならば、そこから逃れるには孤児(「みなしご」)になる他ない[1]。そしてなぜそんなことをしてまで規範から自由になりたいかと言えば、「だれのためにでもなく ただ自分のためにだけ 移動しつづけ」る為であり、「このおろかしくやっかいな個人が 愛を維持して行くため」、つまりただ自分自身でありたいが為だ。

 これは1980年時点の作品だが、この時点で既に” 〈本来のものが現れる〉/〈既存のマヤカシが消える〉”の類型を見ることもできるだろう。すなわち”〈本来のもの〉=自分自身”であり、”〈既存のマヤカシ〉=社会的規範” (国家など)である。平沢にとってホログラム、〈既存のマヤカシ〉とは、自分自身(ないし、あなた自身)を覆い隠してしまうような社会的枠組だと言って良いんじゃないだろうか。今でも平沢は口を開けばすぐに「自分は自分自身であり続けてきた」とか「あなたもあなた自身であるべきだ」というようなことを言っているし、それを阻害するメディアコントロールみたいなものを目の敵にしているのは、Twitterを遡るなりすれば明白で、ちょっとコアなファンなら大体把握していることと思う。平沢はそういった姿勢を既に35年も前から持っていたと言っていい。

 という訳で、ここまでの話をまとめるとこういうことになる。

平沢進が考える“〈本来のもの〉/〈既存のマヤカシ〉”として指し示される内容(の一つ)は、“自分自身/社会的規範”である

 この想定を元にして平沢歌詞の色々な部分を読み解くことはできるはずで、例えばtown-0 phase-5では後者は「広告」であってそれを排した「真実の街角」で「愛は如何?」と「すれ違う」のは本来的な“私”や“キミ”であり、Big Brotherでは(元ネタの『1984』からすれば当然だけど)一個人に服属を迫る規範そのものを描写していると言っていい。平沢はTwitter上で「今でも西暦は1984年。去年も来年も1984年。」みたいなことを言っていたように思うけれど、そりゃbig brotherが家族面をするのならば「みなしご志願」にもなりたがるのも当然だ。

 けれどこれを元にして「平沢歌詞はこう読めるぞ」とやるのは止めておきたい。それをしてしまうと、平沢作品の持つ他の要素を捨ててしまい、むしろ色々なものを読み落とすに違いないからだ。だからこうやって個別的なものを一つ押さえたなら、次は「他にもこんな要素、あんな要素がある」と思いつくままに挙げていくべきだろう。ここには(特に90年代的な)インターネットとかユング心理学とか平沢ファンにはお馴染みのアレコレが入ってくる訳だけど、この話はまた別の機会としよう。

 

 以下、オマケと補足のようなもの。ここで挙げたような、社会の規範や国家というものは虚偽的なものであって、そこから逃げ出すべきものだみたいな発想については、平沢進は恐らくSF文学から大きく影響を受けている。というよりは、SF文学の中にある構造主義的な潮流と言った方がいいかもしれない。具体的に例を挙げれば、ice-9の元ネタであるカート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』だ。ちょうど79年には日本語訳が出ているから時期も合う。初期p-modelの頃の平沢が実際にこれを読んでいたかはわからないけれど、お気に入りのタルボとそれを用いたアルバムの名前に引っ張ってくるぐらいだから、平沢の考えにガッツリ合致している小説と見て間違いないだろう(他にも同作者の『タイタンの妖女』、『スローターハウス5』への言及が見られる。前者はまだ読んでないけど、『スローターハウス5』は面白かった…。あと『国のない男』なんていうどっかで見た感じの書名もこの人の著作にある)。

 カート・ヴォネガットはこの『猫のゆりかご』で、国家と宗教をパロディ的に描いて、その虚偽性を遺憾なく描写している。以下、ネタバレなのでこの本を読みたいと思っている平沢ファンは避けた方がいいかもしれないが、「猫のゆりかご」(日本で言うところのあやとり)というタイトル自体がそれを表している。例えばこのシーン。

  ニュートが鼻を鳴らした。「宗教なんて!」

  「何と言ったかね?」とキャッスル。

  「猫、いますか?」とニュートは言った。「ゆりかご、ありますか?」

 つまりあやとり、あの糸の輪っかで形をつくるあの遊びで「猫のゆりかご」を表しても、そこには猫もいないしゆりかごも存在しない。それは猫やゆりかごを指し示す記号に過ぎないし、実態を伴っていない。宗教なんてそんなものだと言うのである。神や神学的世界をいくら説いて見せても、神はいないのだと。そしてそのような理解の下で敢えて創作された宗教としてボコノン教というものが登場する。この宗教は宗教らしく宇宙論を説いてみたりするが、それはその教祖自身に「〈フォーマ〉だ!うそっぱちだ!」と喝破されるようなもので、要するにこの宗教自体が(他の宗教もそうであるように)「嘘のかたまり」として自覚されたものとして登場するのだ。そしてその教えの中にはこんな一節がある。

 …ボコノンが〈グランファルーン〉と名づけたものの典型だろう。〈グランファルーン〉のほかの例としては、共産党、アメリカ愛国婦人団体…そしてあらゆる時代のあらゆる大陸のあらゆる国家がそうである。

  ボコノンはわたしたちにこう歌おうと呼びかけている。

   グランファルーンを見たいなら

   風船の皮をむいてごらん

 つまり国家やそれに類するような共同体は大きな風船のように空虚なものだという訳である。その正体を見ようとすれば、破裂して消えてしまうようなものだという訳だ。そして、この小説の舞台であるサン・ロレンゾ[2]はまさしくパロディ的な「国家」であり、ボコノン教がそうであるように、国家の虚偽性を見せつける国家として作られている。

 こういったものを象徴する形でタイトルの『猫のゆりかご』があるのだろうし、「十万年以上も前からおとなは子どもに猫のゆりかごを見せ続けてるんだ。おとなになった時に気が狂ってるのも無理はない、猫のゆりかごなんて存在しないんだから」というようなセリフが出てくる。この『猫のゆりかご』のような立場に共感するならば、「みなしご志願の夜にげ人」みたいなものが出てくるのも納得が行く。ここに平沢の一つの源流があると見ていいだろう。

 加えてもう一つ面白い事実があって、カート・ヴォネガットは1946,7年に大学院で人類学を学んでいて、後に『猫のゆりかご』(1963年)を論文代わりとして修士号を認められている。第二次世界大戦後の人類学と言えば、レヴィ=ストロースによって構造主義を生み出した学問であって、現代思想の一つの発端だ(のはず)。ヴォネガットもその潮流の中にある人物だと言える訳だし、日本でも筒井康隆の『虚航船団』や伊藤計劃の『虐殺器官』『ハーモニー』というように構造主義的な発想に基づくSFがたくさんある。平沢進以外にも、例えば僕の好きなもので言えばserial experiments lainとか構造主義っぽい発想を使った創作物は現代ではいくらでもあって、最初につらつら述べたような平沢のスタンスもそういった社会の中でなんとなく共有されている思想が色濃く、意識的に現れたものに過ぎない[3]。という訳で、戦後フランスで生まれた構造主義やそこから発展していった思想は、知らない間に我々一般人にも無意識的に共有されることになった、というのが今回の話のオチである。

 しかしこうして見てくると、実は” 〈本来のものが現れる〉/〈既存のマヤカシが消える〉”のスタンスには一つの大問題がある。それは、「〈本来のもの〉なんて存在するのか」ということだ。構造主義が明らかにしたのは、高度に発達した国民国家も実は原始的な部族社会も同じような構造を持っていたのだということだった。ありがちな表現で言えば「『国家』や『民主主義』は〈儀礼〉的行為であって〈神話〉に過ぎない」みたいな風に言われる。〈既存のマヤカシ〉は人類の習性であって、個人個人もその〈既存のマヤカシ〉の中で形成されるものに過ぎないということになる。けれどもまぁそこは良しとしよう。絶望的な状況に対して「行こう どこかでは 荒んでもキミはまだキミ」(アディオス)という風に希望を見出すことにこそ平沢のスタンスがあるのだし、それはボコノン教に言わせれば〈フォーマ〉、無害な非真実という具合になるだろう。

 

 

 

[1] ちなみにこの“家”から自由になることは、近代日本文学において常にテーマとされるものであった。何故なら、「〇〇家の△△である私」から逃れなければ、近代的個人としての私(例えば自由恋愛とか就きたい仕事に就くとか)にはなれないからだ。特に明治の文豪たちは大体これを扱っていると言っても過言ではないだろうけど、この“個人”を突き詰めていけば、「○○国民である私」からも自由にならなければいけないという論理になるのは明らかだろう。戦前の文豪たちは、マルクス主義の影響を受けたプロレタリア文学作家を除いて、概ね自分自身が大日本帝国臣民であることには疑問を持たなかった(例えば漱石は国費留学生だし鴎外は軍医、戦後に活躍した三島由紀夫でさえ「日本」に殉じて切腹する)。マルクス主義者以外で(というかマルキストソビエト共産党に包摂される限りではやっぱり「祖国」を持ってしまうのだけど)、自分が〇〇国民であることに疑問を抱く人たちが現れるのは概ね戦後の時期であり、現代思想と呼ばれるような考え方が出てきたからのことになるだろう。ついでに言えば、平沢がSP-2(タイの性転換した元男性の女性)を擁護するのにも繋がるようなフェミニズムの思想も、「私は男性/女性である」ことから逃れて単なる“私”になろうとするものだと見ていいはずだ。甚だ脱線したけれど、平沢進も(そして当然これを書いている、読んでいる人間も)そういった流れの中にあるのだという話である。

[2] この「サン・ロレンゾ」と酷似する(というか日本語の問題なだけで元は同じなのかもしれない)地名「サン・ロレンソ」というのがアルゼンチンにあって、しかもこの地名はレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』に顔を出している。一体どういう風に言及されていたか、手元に本がないから確認できないのだけれど、後述の関係からしても偶然ではないのかもしれない。

[3] 平沢ファンならここで「トーテム」、「インディアン」、「コヨーテ」のような神話的なもの、村の長老といった平沢が一時好んで用いたモチーフを思い起こしてもらいたい。これらもまた人類学・民族学的対象としてよく見られるものである。